母と長女

ふたりの息子や孫たちから声がかかれば突然、元気になる母が、なぜか長女である私の前では、しばしば重度の病人になる。昨日の朝も、何時間もため息をつき、「首が痛い」とうめき声をあげていた。
「畳の上でかがんで新聞を読んだり、書き物したりして、姿勢が悪いから、首が痛くなるのよ」となどとつい口にすると、「あんたは冷たい。痛いんだから、しょうがないでしょう。あんたも年を取ればわかるのよ」と怒り出す。
「大丈夫? 辛いね」とだけ言ってほしいのだろう。

昨日はしばらく黙っていたが、そのうち起き上がり、また新聞を畳の上に広げて読み始めたので、なるべく優しく、「姿勢が悪いと、私も首が痛くなるよ。新聞はこたつの上で読んだほうがいいよ。言うと怒るから、もう言わないけれど」と声をかけた。母は珍しく、反発せずに、黙っていた。
しばらくして、「チーズケーキ、食べる?」と2階から母に声をかけた。私が何か質問すると、まずは否定する母が、「…ん、少しなら食べてもいいけど」と言う。しかし、私の大好物のチーズケーキなのに、「食べてもいい」とはナンだ? 「食べても食べなくてもいい」なら、あげないよ…と思ったけれど、「コーヒー、飲む?」と聞くと、「飲む!」と即答したので、飛び上がるほど驚いた私は、チーズケーキも添えてあげることにした。
何かいるか、と聞くと、たいてい、「いらない」「もう薬を飲んだ」「気持ち悪くなる」などと答える。素直に「ほしい」と答えたのは、これまでの人生で初めてかもしれない。

「どうぞ」とコーヒーとチーズケーキをこたつの上に置く
「こうやって、首をゆ~っくり、回してごらん」と私が首を回して見せる。
母は直立して、私と向き合い、首をゆっくり回し、「いたた」と声を出す。
「もっとゆっくりでいいんだよ。で、今度は逆に…」
 母は私が言うとおりに、回している。この素直さもかなり珍しいことで、驚くに値する。

 1時間ほどすると、「〇〇に買い物行くけど、いるものある?」と母が明るい声で1階から声をかけてきた。車でなければ行けないところだから、すぐ近くに住む弟夫婦に買い物に誘われたようだ。
さっきまでのあの死にそうなうめき声は、ナンだったんだ?
イヤ味に聞こえないように優しく、「首、もう痛くないの?」と聞いてみる。
「…首? 首はいつだって痛いわよ!」
ほらほら、元気になりましたよ!
「さっきのコーヒー、美味しかった」と母。
これで私はまた、飛び上がりそうになるほど、驚いた。私が作ったり、淹れたりしたものを、母が「美味しい」と自分から言ったのは、これまでの人生で3度目ではないか
「…コクがあって。ジョナサンのコーヒーと全然、違うわね」。
ジョナサン? あのファミレスの?
このコメントでガクっと来たけれど、母との関係は少しずつ、でも、確実に変わってきている気がする。これが続いてくれることを、願うばかりだ。
うれしそうに弟夫婦と買い物に出ていく母を見届け、私は晴れ晴れとした気持ちで、夫とふたりで映画「海難 1890」を観に出かける。

@DSCF6004

Photo: Eau Galle Lake, Wisconsin 

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