プロフィール
東京都杉並区生まれ 青山学院高等部在学中に1年間、米ウィスコンシン州の小さな町に留学。青山学院大学在学中に1年間、協定校・米オハイオ州の私立大学に留学。ニューヨークの私立 New York University 大学院で修士号取得。読売新聞、アメリカ現地紙記者を経て、作家・エッセイスト。
英語と私
5年生の時、友だちに誘われて習い始めた英語は大嫌いでした。リンゴやハチの絵を見て、appleやbeeの綴りを覚えるのが退屈で、すぐにやめてしまいました。英語の虜になったのは、中学生の時、カーペンターズのYesterday Once Moreを聴いてから。英単語を調べては、家じゅうのものにdesk、chair、cabinetなどと書いた紙を貼りまくり、叱られたものです。
アメリカと私
躾の厳しい商家で生まれ育ちました。女に教育はいらない。大学進学など許さない、という明治時代のような家風。小学校6年の時、父親が心筋梗塞で急死。その頃から、アメリカに行ってみたい、という夢が膨らみ始めました。でも、祖父母は信心深い日蓮宗の信者。祖父はすでに亡くなっていましたが、祖母は西洋嫌いで、ピアノを弾けば、「西洋の楽器など弾くんじゃない。三味線をやりなさい」と叱られる始末。「アメリカ留学などとんでもない、行くなら、岡田家との縁を切っていけ」と猛反対されました。私は遺書を書き、家族の目に触れるところに置いておきました。「アメリカに行けないなら、渋谷の東邦生命ビルの屋上から飛び降りる」と。祖母はついに折れ、私は念願のアメリカへと旅立ちます。
作家への道
英語教師、同時通訳、通訳ガイド。中学生の頃から、将来は英語を使って何か仕事がしたいと思っていました。書くことに興味を覚えたのは、大学4年でオハイオ州に留学した時。Creative Writingの授業で初めて書いた英文の短編小説が、大学の文学賞を受賞しました。米大学院でCreative Writing(小説創作)を学び、新聞記者になりましたが、まとまった仕事がしたくなり、記者を辞めて、本の執筆を始めました。
伝えたいこと
20年前にジャーナリストとして、【ニューヨーク日本人教育事情】(岩波新書)に書いた思いが、今も私の根底に流れている気がします。「何もニューヨークに行かなくても、海外に住まなくても、立派な国際人は育つ。逆に海外に何年住んでいても、国際人と言えない人もいる。国際化というのは、英語が上手だとか、アメリカ人の子とよく遊んでいる、ということではない。異なる文化を背負った相手を、そのまま、違う相手のまま受け入れ、同じ土俵の上でつき合っていくことである」。
最高の1年
祖母の反対を押し切って、ウィスコンシン州の小さな田舎町で過ごし始めた時、英語がほとんど理解できず、雑音にしか聞こえませんでした。疎外感、挫折感、自己嫌悪、劣等感にさいなまれる日々。少しずつ、それを克服し、アメリカ生活にどっぷり浸りました。今でもあの1年は、私にとって最高の年だったと言い切れます。マイノリティの立場に立ったという経験が、人生の何よりの収穫でした。