「ミッツィ、気でも触れたの?」。

私がひとりでロシアに行くと言ったとき、ウィスコンシン州の小さな町の友人たちは驚いた。NYでも、先祖が旧ソ連からやってきた友人などは関心があるようだったが、60代の知人は、刑務所に面会に行ってあげるよ、などと真面目な顔でジョークを言った。

初めて訪れたロシア。ソ連時代とは一変したとはいえ、とくに入国するまでは、私もかなり緊張していた。

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モスクワの赤の広場に面する旧ロシア帝国の宮殿、クレムリンを見学し、外に出ようとしたときだった。ここには今も、大統領府や大統領官邸が置かれ、あちこちに警備員の姿がある。
出口に向かって歩いていると、警備員が常駐するボックスがあった。その前で警備員が花の束を抱え、要らない葉を手でむしりとっていた。ボックスのすぐ後ろに芝生が広がり、そこで高齢の女性スタッフが積んでいた。それを彼がもらったようだった。
ボックスの中にも、花の束が無造作に置かれていた。
私が歩み寄り、ここにどうして花が置いてあるのですか、と英語で尋ねた。
英語があまりよく理解できないようだった。警備員が私をじっと見た。
ガールフレンドにあげるのかしら。
イエス、と答えてから、ノン、シスター、と言い直した。
お姉さん? 妹さん?
姉。それと、母。
花の写真を撮ってもいいですか。
そう尋ねると、彼が花束を差し出して、私を指さした。
私が花を持って撮りたいのではなくて、花束だけを撮りたいの。
彼はさらに花束を私に近づけて、言った。
For you. これ、君に。
For me?  私に?
彼がうなずく。

TRMG_DSCF6331 でも、お姉さんとお母さんにあげるのでしょう?
まだあるから、大丈夫です。そう言っているようだった。
本当にもらって、いいのですか。
彼はうなずいた。
私は驚きながら、唯一知っているロシア語を口にする。
спасибо(スパシーバ=ありがとう)。
あなたの名前は?
イワンです。
イワン。スパシーバ。
君の名は?
ミツヨ。
ミ、ツ、ヨ.
彼が繰り返す。
そして、ロシア語で何か言う。どこの国? と聞いているようだったので、ジャパンと答える。
オー、ジャポン。
嬉しそうに叫び、続けた。
オメニカカレテ、ウレシイデス。
片言だったけれど、きっと何度も使ったことがある。そう思わせる、スラスラと出た日本語だった。
彼はモスクワの日本大使館で警備員をしていたことがあると言った。
思いがけない出会い。思いがけない贈り物。
クレムリンの出口には、別の警備員が立っているに違いない。
これを抱えて出て行って、大丈夫かしら。
私が口にした英語がわかったのかわからなかったのか、彼はほほ笑みながら、うなずく。
イワンに、たぶん、もう二度と会うことはないだろう。
別れを惜しみながら振り返り、彼に手を振る。彼も手を挙げる。
出口で警備員に呼び止められることもなく、赤の広場に出る。
むき出しの花束を抱え、すれ違う人たちの視線を感じながら、ちょうど小雨の降り始めたモスクワの街を歩く。
角を曲がると、同じような姿の花売りの男の人とばったり出会い、思わず笑みがこぼれた。

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*念のため、彼の名前は仮名にしました。